【さよならビッグデータ】「Gears 5」から「Old School Rally」まで【AIドリブン型データサイエンス】

閑話休題。例えば、コーナーで大きく減速した場面を見て、「速度を落としすぎています」と言うのは簡単だ。でも、その減速によって車体の向きが整い、出口から加速をつなげられたのなら、その場面を丸ごと失敗扱いするのはおかしい。反対に、速い速度で進入できていても、その直後に外へ膨らんで壁へ接触したのなら、入口の速さだけを褒めても仕方がない。つまり、見たいのは瞬間的な速度の大小ではなく、その前後のつながりの中で、その行動が何をもたらしたかなんよ。そういう意味でビッグデータは役に立たない…というよりかはデータを支配しAIを刺激しないように、生まく飼いならすことが求められているんだよね。

例えば、「Gears 5」では。動いたから積極的で良い・待ったから消極的で悪い、と機械的に判定するわけにはいかないだろう。待つことで相手を誘い出せたのか。動くことで味方との連携を崩したのか。結果だけでなく、その場面の条件に照らして評価する必要がある。平均化されてても困る・平均化されてなくても困る…これでは研究が進まない…wだから、ゲヲログが次に考えたいのは、「Gears 5」の事ではないし、AIを万能なコーチなだけにすることではないんだ。AIが何を根拠に評価し、何を見落とし、どこで判断を誤るのかまで含めて検証する状態が平和裏な平時に常々あることなのだ。

同じ場面を、短く切り取って見せた場合と、前後の状況を付けて見せた場合では、評価が変わるのか。速度や区間タイムを添えた場合、その説明は映像と整合するのか。あらかじめ決めた観察基準を、人間とAIがどこまで共有できるのか。これなら、研究対象はプレイヤーの上達だけじゃない。「その上達を評価する仕組み」そのものにもなる。Non-Big-Data分析へ。無論、本来はアンドリュー・ンらが言うようにそんな簡単な事じゃないけど…。ここからが、ゲヲログが長年気になっている話につながるのだ。自分がNon-Big-Data分析と呼びたいのは、データの価値を、その量の大きさだけで決めない分析。

データって、必ずしもビッグでなければならないわけじゃないじゃん?ゲームを題材に取っているとは言えども、ゲヲログが向かいたいのも、その方向なのだよ。例えば、一人のプレイヤーの動画が数十本しかなくても、それぞれについて、いつ、どんな条件で、どんな課題を意識してプレイしたのかが分かる。成功と失敗の両方が残っていて、映像と結果を対応させられる。分析の基準も明示されている。そういうデータなら、一件一件から何を検討できるのかを、具体的に考えられる。逆に、動画を大量に集めても、条件が分からず、成功例だけが選ばれ、評価の基準も毎回違うのなら、自分の問いに答えるための材料としては扱いにくい。

だから、データが少ないことを美徳にしたいわけでもない。必要なら追加で集める。ただ、その前に、何を知りたいのか。そのために何を記録し、何を比較できる状態にしておくのかを考えておく必要があるんだよね。例えば賢い「ワイズデータ」と呼びたくなるものがある。判断に必要な条件や文脈が整理され、問いに対して意味を持つデータだ。あるいは、平均的なプレイから外れているけれど、成功や失敗の仕組みを考える上で面白い、奇抜な「エキセントリックデータ」もあるだろうな。これらを機械器に入れ続けたら何が起きるのだろうか?純粋な興味である。

もちろん、ここではゲヲログなりの呼び方をしている。珍しいデータなら何でも価値がある、という話ではないし、ビッグデータが悪いわけじゃない。大切なのは、臨機応変に、「なぜこの事例を残すのか」を説明できることだ。よくある成功、よくある失敗、成功と失敗の境目にある場面。これらがキーだ。そして、自分の仮説にとっても都合の悪い場面を切り捨てない。それらを比較できる形にして、機械器に与えた続けたとき、何を読み取れて、何を読み違えるのだろうか?そういう疑問である。データを増やすことだけでなく、データの意味を明確にすることによって、分析はどこまで変わるのか。 自分がフォーカスしたいのは、そこなんよ。