三島由紀夫と東大全共闘の話の流れを見ていてわかったこと~西田vs米山の話との圧倒的なレベル差~
三島由紀夫と東大全共闘の話の流れを見ていてわかったことがある。「この時代の議論のレベルの方が高い」ということだ。西田vs米山が話題になっているようだが相対してこれは「議論にすらなっていない」と言わざるを得ない。この東大での討論がされたのが50年以上前。今は2025年。本来であれば議論が熟成されて「この時代の議論のレベル」をより超えているべきである。大学教授vs国会議員。なぜここまでレベルが凋落したのか?一体こんな事態が起きたのはなぜだろうか?個人レベルで感じられる点を書いてみます。
相手の考えを汲み取ろうとしない
議論において相手の考えを汲み取ろうとしないとお互いのすれ違いが起こってしまい共感する場面やきっかけを逃してしまう。そもそも相手を罵倒するということは考え方の共感性を逃してしまってお互いのすれ違いに直結する流れを作ってしまう。だからこそ相手の考え方に共感の余地をいつでも残しておくというのは重要である。相手の意見が100%間違っていると決めつけて考えることは議論の余地を潰してしまってその未来的な発展性を逃してしまうのだ。その根本的な具体的要因は何か?
そもそも相手の会話を遮ってしまう
最初から議論をするつもりで来ているのに議論のベースとなるルール作りがなっていない。だからこそ相手の話を早々に切り上げてしまって断絶してしまう。相手の話を遮って相手が過激であるとか偏屈であるという印象作用を作ることは議論を無為に仕立て上げてしまう。そもそも議論にすら発展しないので非生産的すぎる罵倒になってしまうのだ。これは戦争や不平等条約の認否の問題ではないのでそういった実地的利益につながるものではないことは明らかである。だからこそ思想の力において生産性のある前提を導いておくことは重要である。傾向が既に傾いているのでお互いの知見を深め議論を成熟させる過程の冒頭からその切り込みを拒否してしまうことになる。早々議論の断絶に直面してしまうのである。
思想や立場のせいにしてしまう
TVやネット番組に出る以上は身分や立場があるからこそ議論に参加できないというわけではなく逆であるのは当然だ。一定の代表性を持っている(身分や立場を持っている)から仮定の前提で民意を一定程度抽出していると考えるのが討論の前提である。だからこそそこにふさわしい己の”ジャンル付け”をしたうえで議論討論を熟成させなければならないのに逆に個人攻撃に走り「そもそも考え方が違う」「あなたの身分がこうだから駄目なんである」と決めつけてしまうのだ。責任的な身分があるからこそ責任のある言葉が発せられることを意識しなければならないのにそれを一定以上無視してしまう。
破綻した論理を駆使してしまう
議論をするうえで相手を論破すること自体が目的になっている。お互いの代表性を踏まえたうえで己の知見を活かし議論を実り豊かなものにするために言葉を扱うのがその本質であるのにもかかわらずそれを無視してしまうので論理が破綻してしまうのだ。そうしていくとお互いの罵倒に罵倒を重ねるために論理の筋が通らず相手の些細な枝葉的矛盾のみを突く非難合戦に終始することとなる。そうなると議論のための論理なのにもかかわらず論理のための議論になっていき風土が熟成するきっかけを逃すことと相成る。ここに至って論理は破綻し本来の目的を見失ってしまうのである。
工夫やテクニカルな話が少ない
工夫やテクニカルな話はそうした議論にアクセントをつけるための香辛料のようなものである。それが知識であり知見である。例えば英語であったり言語的なレトリックであったりする。それがないためにお互いにとって言葉では表しつくせない状況を打破する些細なことが共感として発展していくことを阻害してしまう。生産的な工夫やテクニカルな論法があると議論には緩急が付いて話が盛り上がっていくはずだがそうしたコンテンツ性がないがため議論はお互いの罵倒合戦に行きついてしまう。中立的な立場を意識したり語学や言語学の知識を援用したりそもそもの自身の専門性を活かした議論は遂行可能なはずであるのにそうした機会をみすみす逃してしまうためにプロダクティブなものをとらえることができなくなるのである。
議論のための前提を踏まえたまとめ
一言で言えば相手に対する事実と認識のずれが大きすぎるがため西田・米山の議論はダメなのである。一つ一つ見ていくが…相手の考えを汲み取ろうとしないというのは当然その通りである。西田・米山両氏ともにこれはそうである。共感性が発掘できないのである。それはそもそも相手を罵倒し冷静さを失っているからである。そして非難の矛先はお互いの立場にまで及んでいてその代表性の性質を無為に考えているように私には捉えられる。責任ある立場であるからこそそのお互いの責任性質のメリットを与しなければ当然議論の意味がなくなってしまう。そうしていくうちに議論はどんどん先鋭化していってついぞ議論になってもいない破綻した論理を援用してしまうこととなる。当然アクセントや香辛料の立場にある工夫やテクニカルさもないので生産的討論の機会を逸してしまうのである。どうだろう?まとめてみるとこんな感じか。