海外のDiscordと国内のDiscordのチャットを経験して気付いた五つのこと


As long as it’s productive, the means don’t matter – that’s the basic attitude of overseas Discord, and by extension, overseas culture. The reason Japanese Discord is quiet isn’t because it’s “polite.” It’s quiet because it’s irreversible. The negative effects of this cultural background are also significant. There must be many victims.


提案vs沈黙

海外のDiscordは、思いついたことを即座に口にできる環境にある。一方で、国内のDiscordでは沈黙がデフォルトであり、思いついたからといって、そのまま話題の主軸を移してよいわけではない。海外のDiscordでは突拍子もない発言でも許容されるが、国内ではそうはいかない。「あいつ空気が読めない(KY)ね」という評価が下されれば、それで終わりだ。現に海外では「なぜそんなことを言うのか」と問われること自体がほとんどない。発言はまず投げられ、必要ならその場で検証される。対して国内では、発言の背後にある文脈・原因・人間関係が過剰に問われる。一見、直情型に見える海外チャットよりも、実は日本のチャットのほうが、直情的なのである。

論理vs空気

海外のDiscordでは主語の明示と自己主張が前提となる。そうでなければ、相手の考えが論理的に把握できないからだ。一方で、国内Discordでは文脈と空気が最優先され、省略が多用される。その結果、意見のズレが即座に人格否定へと転びやすい。海外では、うるさくても議論は前に進む。国内では、和を乱す議論そのものが拒絶されがちだ。

訂正vs下調べ

加えて、海外Discordの大きな特徴は、失言や誤謬が「訂正される前提」で流通する点にある。誤りは個人の失敗ではなく、議論のプロセスとして回収される。アズマンの唱える「訂正可能性の哲学」は、日本の言論に適合しているのではなく、そもそもまさに海外文化に適合している。喧噪の中で議論はあちこちに飛びながらも継続され、最終的には論理の辻褄が合わせられていく。直情的でありながら論理的で、生産的でもあるのが海外流。国内Discordではその逆がまま起きる。和を尊ぶあまり、改善案があっても「失敗の可能性」だけで提案が封じられる。結果として、発言前に過剰な下調べが個人に課され、議論そのものが立ち上がらない。

喧噪vs排除

海外Discordでは、喧嘩は基本的にその日の出来事で終わる。トピックが変われば議論も人間関係も、当然のように更新される。昨日対立していた相手と、今日は別の話題で協力することも珍しくない。「昨日の敵は今日の友」で「人は変わっていく」─その当たり前の前提が、海外のオンラインチャットでは実装されている。国内Discordでは実は逆。一度のミスや対立が、その人の恒久的な属性として保存・保持される。結果として起こるのは、徹底したいじめか無視、排除である。間違いは訂正されるのではなく、人格攻撃やコミュニティからの追放に転化する。

返事・挨拶の自由vs強制

海外Discordでは、返事がなくても問題にならない。重要なのは主題にフォーカスし、コアな仕事をやり切ることだ。それ以外は流しても構わない。国内Discordでは、返事や挨拶が義務化されがちだ。すべてを完璧にこなそうとする結果、かえって全体が停滞する。すべてを完璧にしようとするあまり、意識ばかりが空回りして議論が潰えてしまう。目指しているゴール自体は同じでも、そこへ至る文化的ルートがまったく異なっているのである。

結論

要するに、生産的であれば手段は問われない─それが海外Discord、ひいては海外文化の基本姿勢である。対して日本のDiscordでは、対人評価が不可逆で更新不能になりやすい。この構造は、少なからぬ参加者にとって相当なストレスとなる。どちらが優れているかは個人の価値観次第だ。ただし、日本のDiscordが静かなのは「礼儀正しいから」ではない。不可逆性を帯びているから静かなのだ。日本には日本なりのやり方があって、そこに美しい方法論を見出すのは自由だし、それ自体も尊重されるべきだが、この文化背景による弊害もまた大きい。被害者も多くいるはずであることは、素直に日本人自身が認めるべきだ。