修士以降の大学院での研究の実績は学部や院以降の学業成績とは全く関係がない。私も飛び級で大学院に入ったかたを同期生として見てきたが研究内容すらままならなくて苦しんでいる学生もいたのが印象に残っている。純粋な理系ならばまた違うだろうけど特に文科系や経営系やデータドリブン系の大学院ではここまでの学業成績では測れない計画性と実行力が求められてくる。計画性とは論理だてて物事を構築する理論能力。実行力とはそれを裏付けるための実践の力量のことだ。論文のアウトラインを描けるか?実際に応用可能なPGを書けるか?という点で学業成績とは全く次元のことなる力量が求められるのだ。
例えばAという事象を発見したとする。次にBという事象を発見したとする。ではどういった内容がそこに見られるか?ということを観察眼でもってしてしっかり論を立てて検証しその上そこに新規性がなければならない。大学院での研究の過程で求められるのはこのA/B双方の関係性を深く紐解くことで合って単に「AとBは似ている」と指摘することではない。重要なのはその両者の間にどのような構造的関係が存在しているのかを観察眼をもって捉え概念化し一般的に説明可能な形にまで落とし込むことである。此処に至るまでに再現性も当然必要になってくる。
このように単に似ているものだけを抽出してここはこうだと断定して言うのは明らかにおかしい。それは「物理法則にも一定のZipfの法則が表れている」と指摘しているだけのことであってそこに「どういった物理の統一理論があるのか?」については論が全く及んでいないのと同じことだ。学者の仕事は定型的な影響係数を指摘し「こういった係数がある」と言う・主張するだけでは済まないのだ。それは単なる指摘であって一つのジャーナリスティックなオピニオンとしては役立つかもしれないが研究はそうであってはならない。
だってその影響係数が「どんな内容を持っているか」ということまで解析に及んでこそ初めて研究に意味がもたらされるのだから。現状Aという事象とBという事象があったとき「それらが似ている」と単に言うだけでは意味がない。そこの中身に「どういったブラックボックスがあり」かつ「そのブラックボックスの中身がどうあるのか?どんなものなのか?」ということにまで論が及んでこそ初めてその論は意味を持つのである。偉い学者(とされる人)でもここにまま勘違いが見られる。物語に逃げ込むだけでは研究者の論として成り立たない。学識者の論としても成り立たない。
文科系の研究でアリストテレスのロジックがままいろんな派生の理論に見受けられるのはそりゃ当然のことだ。それはアリストテレスの政治学という学識が現代性を持っていてそこに根源的な意味があるからであって単に「これがアリストテレスの論に似ている」とだけ言う(なぜ「サイバネティクス」の解説にこれが出て来るのかわからん)のは小学生でもできる夏休みの自由研究のレベルだ。それは至極簡単な文筆の仕事に過ぎない。「アリストテレスの論にどういった近似性があってどういった内容が垣間見えるか」点まで追ってこそ一流の学者なはず。此処に至ってその論は初めて研究のスタート地点と言えるのだ。
