早大名誉教授の有馬哲夫がXで暴言を吐いて論争になっている。よーするに「日本の成長を支えてきたのは自分たちの世代であってその子の代・孫の代は感謝して勉強や仕事に励め」といったことを述べたわけだが。騒動の発端を主として私は見てきたがこの論争は論争とはとても言えない…本質を得てない単なる”言葉遊び”だ。コアな問題は高成長時代の恩恵を誰が受けどの世代が特段に悪いかということではない。そんな複雑な問題をケースに当てはめるように強制すること自体不可能だ。例えば有馬はこのようにXポストしている。
もとのポストの原文では、相手の若者に対して、われわれといってます。
— 有馬哲夫 (@TetsuoArima) October 29, 2025
もちろん自分も含みますが、ここが重要ですが、自分以外の幅広い層を含みます。焼け野原再建世代をふくみます。だから私の世代とはいわずわれわれといってるのです。… https://t.co/3g3KeqPyps
次にコミュニティノートにある高度経済成長期ですが、私は「だれが経済大国をつくった」とポストしています。念を押しますが「高度経済成長期」という言葉を使っていません。… https://t.co/N5WJUgwrfo
— 有馬哲夫 (@TetsuoArima) October 29, 2025
これは言語の定義の問題だということを有馬自身が呈しているように私には見えた。だがこのような些細な文の解釈の問題は様々な種々の結果を生み出す”発展的解釈性”を含む。だからこそ有馬のXポストは人によっては妥当に見え(る人もいて)人によっては反感を覚える(ような人もいる)のである。それは当然のことである。文体そのまま取り扱うか?その解釈に重きを置くか?これによって多くの結果が分派して派生していくのは当然ではないか?その人の感じ方を一概にケースに当てはめて正当化することはどだいどんな天才にだって不可能な事なのにそれに気が付いていないのだろう。
例えば「だから私の世代とはいわずわれわれといってるのです」と言うがこれは先述したように単なる言葉の定義を巡る問題提起に過ぎない。枠にはまった言語の駆使・そのテクニカルな部分にフォーカスしすぎているのだ。「念を押しますが高度経済成長期という言葉を使っていません」とも述べている。これも構図は全く同じ。定義の問題にフォーカスしすぎていてそれがために自分の発言に固執し正当化しているわけだ(それが良いのか悪いのかは別問題として)。そして高圧的な態度を暗に感じさせる点も注目すべきである。
例えば赤の他人にX上で「Xのポストする暇あったら勉強しろ働け」と言われる筋合いはないのは当たり前である。てかそんな泥沼の言葉をインターネット上と言えども発することに全く根幹から意味がないことに有馬自身は気付かないのだろうか?この問題は概して有馬自身も有馬に反論しているものも含め極至極低レベルなのである。誰かが功績を作っていたとしてそれを誇示する必要はないしそれを過大評価する必要も過小評価する必要もない。あるがままの事実に任せて挑発的に余計なことを言わなければいいだけなのである。よーするに有馬も悪いが有馬にわざわざ反応し反論しているXerも当然悪いと言える。
言い出しっぺが単に悪いと言っているのではない。これでは分断と不必要な部分の論争を無為に煽っているだけに過ぎない。もうこういった生産性のない論争(と一見見える”言葉遊び”)は一切合切やめるべきだと私は思う。我々は進歩的に言語を活用しそれが単なる揚げ足取りにならないように構造主義的な考え方を持たなければならない。こんなことはソシュールが既に百年以上前に述べてきたことだしそれを言うならばアリストテレスのような民主主義者も同じこと(民主性質の腐敗)を指摘している。~言語を巡る論争が本来持つべき価値は他者理解の深化であり排除や自己正当化ではない~
テクストとしての構造(grammar)に重きを置くか?解釈としての経験(pragmatics)に重きを置くか?によって当然導かれる結果は違うのにその構造主義的な考え方にあまりに両者共に欠落しすぎている。早大の名誉教授という学問的功績があるお方なのだからここは(隠遁するとか引退するとかいう意味ではなく謙虚になるという意味において)身を引いて考え方をもう一度練り直すべきだ。そこから再スタートが始まり”言葉遊び”という論争にすらならない論争が初めて本質的な意味を持つからだ。一言でいうならば一般化されておらず論議の筋自体とらえきれていないこと自体が問題である。これは有馬だけが悪いわけではない。単純に個別の事例・ケースに当てはめ過ぎているからこそ往々にして起こりうる極めて初歩的な論議の問題なのである。
