「羽生君はオタクなのか?」~いかにもゲヲログっぽく解釈してみた

「よくぞこの作品を…」羽生結弦27歳が“僕の原点”と語るスーパーファミコンの“マニアックすぎる”2つの名作ってどんなゲーム? – ゲーム – Number Web – ナンバー

羽生結弦の原点はゲーム?

とある有名なWEBスポーツ紙面の記事で羽生結弦さんがとあるゲームに夢中になっているということが解説されている。屋城敦による2022年の記事だが肝要な点には一切触れられておらず記者の能力不足だと私は酷評する。Numberはもっと高級路線なのだからしっかりとした記事を書いてもらいたいものだが…いかんせん(ゲヲログのような薄っぺらい個人ライターが言えることではないものの)深みがなくて事実の羅列に留まっている。例えば羽生君は実はもっともっとコアなタイトルもやっているらしいのだ。例えば「シュタインズ・ゲート」とかいうのをやってるようだ(よーするに「あつ森」だけではないようだ)。ちょっと自分と比較してみるが,,,別に羽生君がこの時代のゲームに留まらず「とあるゲームの古典が原点」というのは理由がないわけではないだろう。

不登校だった私のケース

私は1990年生まれだが1988年発売の「ドラゴンクエストIII」は実際やったことがある。かなりはまって中坊のころなんぞ学校に行かずやっていたと思う。ちなみにクソゲーとして有名な1986年発売の「アトランチスの謎」もやったことがある。こちらにもかなりはまった。一日30分の制限時間内でゲームはかなりやっていた。これには家族の影響があると思う。姉・兄がやっていたのでやっていたというのがこの現象の自然な説明である。こういったことに思いをはせればわかるが羽生君がこういった古典的なゲーム…例えば「平成 新・鬼ヶ島」「エストポリス伝記II」をやっていたということは家族の影響という理由がデカいと私は推測する。

比較して羽生君のケースから推測できること

この事例のように家族のおさがりとか共通の理解の影響を受けいろいろなものを受け継ぐというのはごく自然なことである。特に当時のゲームカセットはかなり高額だったはず。おさがりの影響もより色濃く出るだろう。恐らく「フロントミッション」ファーストのSFCカセットが1万円以上しただろうから特段家族環境に問題がなくゲーム絶対禁止(だと私は思っている)石原慎太郎のような家庭?とは違う面があったのだろう。父親と母親は稼ぎの8割を教育費に注いでくれたしそのうちの数パーセントをゲームに削いでくれたからこそ今の私があるといっても過言ではない。それは恐らくば羽生君と同じなのである。よって羽生君がゲームに熱心なのは合理的な理由とか由来がしっかりあると思う。ここからはさらなる邪推になるが,,,

ゲヲログ的さらなる邪推

恐らく羽生君に姉・兄の存在やゲームに理解のあるご両親がいなければこの状態はありえなかっただろう。ある程度ゲームに肝要な家庭環境で育ったからこそなのである。また合理的に考えて恐らく姉弟間の影響があったものと私は邪推する。その反面しっかりとスポーティな部分や勉学の部分にガッツリと取り組む教育熱心な家庭環境であったのだろう。私は週刊誌もあまりネット以外では読まんしその辺りの知識はないのであくまで私の邪推であるが。「ゲームだけ」ではなく「ゲームの価値を認めたうえでその創造性に価値を見出しゲーム以外のことにもしっかり取り組め」という家庭の方針ではなかったのだろうか?と思う。「不登校でゲームばかりやっていた」私と羽生君との違いはここにあるとも思う。

ゲームは悪ではない~ゲーム”だけ”はあまり良くないが~

「ゲームもやっていて学校にしっかりと通った」という羽生君と私の違いはやはりあるだろう。だがこの二つの比較からわかる通り論理的に考えてゲームの部分では共通している。共通していないのは「学校に通っていたか否か」だ。つまり不登校か真面目な通学学生だったかの違いである。私がなぜゲヲログのような知識を曲がりなりにも応用できているかというとゲームに夢中になる一方で技術書を始めとして図書館には通い詰めたし様々な資格試験や就職試験も受けていたことがあると思う。重要なのは「ゲームで得た知識や経験を別分野に応用できるか」という点なのかもしれない。間違いなく私はゲームの運用技術でネットワークを勉強したのである。またそれによって論理的な考え方を身に着けたのである。

ゲームを教育に応用する

つまり時代はゲーミフィケーションなのだということがあると思う。ゲームとはありとあらゆる現実の事象の想像性と創造性を組み合わせたものなのでそのシミュレート的応用性は無限大なのである。シミュレーションとか価値観の問題はそもそも論で根っこから無限なのだ。だからフィギュアスケーターの羽生君がそうした原点を語るのはなにもおかしなことではない。あっていいことなのである。よって羽生君はオタクかもしれないが同時にオタクなだけなわけでない。当然の結論しか導けないのがいかにも浅学なゲヲログな論になってしまうのだが【羽生君がゲーム好きなのは当然の帰結】である。そこには芸術的かつスポーティな表現の在り方が既に答案として書かれているのだ。

ゲームを別なベクトルとして創造のため応用する

より発展的に考えるとゲームの持つシステム性を過大に解釈したら,,,そこから羽生君のような創造力豊かな人材がもっと育つかもしれないと私は思う。例えば現代のゲームの世界ではゲーミフィケーション的な人材育成にしっかりと「Minecraft」が使われている。それはなにもおかしいことでなく合理的な論理であることに疑念の余地はない。単に「ゲームが悪」なのではなく(またもしそうであったとしても)「ゲームで培った能力をいかにポジティブに活かせるか?ベクトルを変えてどう活かせるのか?」が試されている時代に現代は入りつつあるのかもしれない。羽生君のゲーム好きとかオタクの噂を見て私はそのように考えた。

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