今回はゲーム業界におけるDEIとはなにか?ということを欧米のそれと日本のそれをメッチャ簡単に比較し解説してみたい。さて4gamer.netではバンダイナムコオンライン事業本部品質保証部の大熊未来さんの言葉を引じて次のようにDEIについて解説している。記事はゲーム開発者のためのカンファレンス「CEDEC 2024」におけるセッション「『表現』でもグローバルを目指す! DE&Iに関する取り組み」に登壇した彼女の言を引く形で構成されている2024年夏ごろのもの(以下は世界観や設定をきちんと踏まえていない多様性は,コンテンツを不自然なものにしかねない。ゲームにおけるDEI表現の意義と重要性,そして導入する際の留意点[CEDEC 2024]より引用させていただく)。
「Diversity, Equity and Inclusion」(多様性,公平性,包括性)の頭文字を取ったもので,「多様な個性が尊重され,公平な環境や条件の下で,能力が発揮できる状態を生む」といった意味であると説明する。
要するに様々な価値観を尊重して門口を広げて多くの需要に答える形式のビジネスのことを言うといっていいだろう。近年ゲームも多様性を尊重しながらビジネスの販路を拡大する必要性に迫られている。人種や性別などの垣根を超えてゲームの需要掘り起こしに一定程度理解を示し行動に移さねば次世代のゲーム産業の形に合致せずビジネスチャンスを逸してしまう…ということらしい。DEIはトランプ政権再爆誕によって揺れ動いていることで昨今話題になっていることもゲヲログの読者ならばよくよくご存知だろう。そういう中でバンナムは少なくともトランプ政権再登場以前の昨年夏頃はこういうスタンスをとっていたらしい(多分日本のDEIは特異点なのでこの傾向は今でも変わらないだろう)。
セッションの冒頭,大熊氏はバンダイナムコオンラインがなぜDEI表現を重要視するに至ったかについて,「コンテンツの間口を広げ,多種多様なゲームプレイヤーに触れてもらうため」であると説明した。
確かにこのDEI重視の日本流のスタンスにはよくよく理解が行く。結論から言うとDEIは綺麗事ではないのだ。日本のゲームは世界に通じていた時期があるがそれははるか昔のこと。最近になって再興している傾向にはあるが最盛期のころの輝きがなくなりそれが話題になってAAA級のタイトルに乏しいということが指摘されている。この事自体はここゲヲログを見ているゲーマーならば同意できる点だろう。ただし大熊さんはこの悲惨な業界傾向に反して「グローバルに受ける日本初のゲームを多く持ちたい」というビジネス上のDEI的野望を語っているわけだ。
大熊さんはDEIに通じるゲーム開発において利用したツールを次のように列挙している。基本的には地味に情報収集してソリューションとなる要素をゲームに実装するということらしい。①他社コンテンツの参考②書籍を通じた勉強③社内研修という方法が提示されている。結論から言うとDEIを実装するには情報を収集し適宜必要な範囲でそれを自社製のゲームに適用する…という地道な方法を取るしか選択肢はないようだ。このやり口はゲーム開発の実情を巡るただ一つの方法と言えるだろう。特にキャラクリにおけるDEI的実装はおなじみの光景。
思うに日本がDEIの必要性に迫られているのは日本なりの特性もあると思う。移民を多く受け入れず反対意識が強い価値観を国民の多くが持っている。同時に移民に対して同化を強く求めそのハードルをクリアした外国人は最大限歓迎する。高度人材は特に積極的に受け入れお金を多く稼いでもらいながら日本国内の産業振興に尽力してもらう。言われないでもわかる日本流DEIの日常風景である。これをバンナムとしても実現したいのではないだろうか?と私は思う。必要なものは必要なだけ取り入れあとはアレンジして日本流のDEIのあり方を追求する。この輸出入のやり方は古典的な日本の模倣論とオリジナルな発想に根付いた強い利点といえるだろう。
その意においてキャベツの人が一介のYouTuberとして指摘する以上に欧米流DEIを批判するのは当然のことである。端的に言ってしまえばゲームにおけるDEIはその理念を通じて理想を追求することではない。あくまでDEIを通じてゲームの販路を拡大することがその役割なのである。つまり日本のDEIは過激ではなく理念的ではない。日本の場合あくまで利益性を重視したDEIとかマーケット拡大を重視したDEIなのである。その点は日本古来の価値観・文化的役割を踏まえたうえで実現される資本主義の論理の一環である。DEIを通じた理想ではなくDEIを通じた利益へ。JK考えればわかることだがこんなことを理解しているのが欧米のゲーム業界ではなく日本のそれであることは「多様性の皮肉」である。