択の選択と環境の構築
これをもっと深く追求するともっともっと興味深い視点が示唆される。まずやることが決まっているゲーム「Civ」「風来のシレン」「Tangledeep」は択の選択をプレイヤーに求めるということ。基本コレだけである。対してやることが決まっていないゲー厶「HoI」「Caves of Qud」「The Doors of Trithius」はゲーム環境の構築をプレイヤーに求めるということである。択を迫るだけではなくゲームのenvironmentを構築することをプレイヤーに求めるのである。言うなればゲームの創造者になれと言っているのである。これは転じて考えればナラティブとメカニクスの違いにもなる。これについてさらに深く追求してみよう。
ナラティブ(narrative)とメカニクス(mechanics)
ナラティブ(narrative)とは「語り」と訳される言葉である。つまりやることが決まっているゲーム「Civ」「風来のシレン」「Tangledeep」は話が前提にある。そこから話を紡いでいくわけではない。つまり前提となるゲームの話がプレイヤーに語られるのであってプレイヤー自体が語るわけではないのである。これは明らかにメカニクス(mechanics)つまり「仕組み」のゲームである。対してやることが決まっていないゲー厶「HoI」「Caves of Qud」「The Doors of Trithius」は話自体をプレイヤーが作っていく必要があるのだ。もちろんこれは極端な事例であって現代のゲームには双方の良さを取り入れたタイトルもある。
現代ゲームはハイブリッドジャンルである
例えば「TES」には導線はある。だが反面そのプレイに伴う自由度も高いのである。これが一番わかり易いハイブリッドの事例だろう。「Slay the Spire」なんかは導線としては一本道だが構築の自由がある。これもやることが決まっているゲームのハイブリッドさがしっかりしているゲームの代表格だろう。「Stardew Valley」なんかも代表格の一角と言っていいだろう。やることが決まっていないがわかりやすく最適なプレイができるのである。私見だがこれらの現代ゲームの代表格はあくまでやることが決まっているゲームがベースになっているように感じる。やりやすさという点では真っ当である。
パラドゲーは極端な事例であり特異点
この意においてパラドゲーはかなり特異点だとも思う。これほど複雑で歴史を想像的にシミュレーションできるゲームは珍しいのだ。だからこそパラドゲーは真のオープンワールドのゲームでありわかりにくい。故に(矛盾しているようだが)パラドゲーはメジャーゲー厶でありつつもメジャーゲームではない。この観点から見ればよくパラドゲーに「こんなに面白いのになんで流行ってないのかなぁ」っていうレビューがつくのもごく自然にわかるところだ。理解しがたいしハードルが高すぎる。理解したところで完全に理解は出来ない。そもそもそういうゲームなのである。