ゲヲログの懸念~集英社ゲームズや講談社クリエイターズラボは失敗する~【「地罰」はなぜダメだったのか?】

ゲームクリエイターに未来予知の力はない

例えば「チャットルーレット」といった画期的なWEBサービスのヒットを誰が事前に予見しただろうか?「Among Us」のヒットを誰が事前に予見しただろうか?そんな余地の能力を持つVCやコンサルはそもそもないどころか作った当人でさえそんな超人的な能力はないのは当然のことではないか。「いつどこでどんな形でヒットするか?」それはインディーゲームではなおのこと当然であるが「売ってみなければわからない」のである。誰かが未来を事前に予知できるとしたらそれに従う必要がある。だが残念なことに人間に予知能力は基本的にないのである。特に確実なものは。「シュレディンガーズ・コール」「OPUS: Prism Peak」などは情熱や熱意で作られているIPだが「Rise of Rebellion~地罰上らば竜の降る~」は情熱や熱意はあっても計画の重層化が響きすぎた。もっと軽いタイトルで勝負するべきだった。そして方針ではなく情熱や熱意でゲーム制作をやってほしかったのだ。「こういったゲームが作りたい!」「ここが魅力的です!」というアピールポイントに欠けすぎたわけである。

「地罰」の失敗は必然だった

そういう意味において「世界一面白いアクションゲームを作る」という文言はあくまでそれが達成した時に言えばいいわけであって単なる結果なはずである。目指すべき目標ではないのだ。ここに根本的な矛盾がありすぎた。Hytackaさんはそもそもゲーム開発に対する情熱や熱意のベクトルを完全にはき違えていたのである。まず何か作りたいものがある☞それを作る☞ヒットするというプロセスが当然のごとくあるのに対してここを逆に作っていたのである。Hytackaさんは「世界一面白いアクションゲームを作りたい!」☞じゃあどうしたらいいのか?というベクトルで作っている。つまり帰納と演繹を勘違いし解釈してしまったのである。積み重ねて作っていくのがゲームであって結果ありきで作るのがゲームではない。ゲーム制作はそれ自体が経営方針ではないのは当たり前のことではないか。

夢=現実という方程式が矛盾を超えて成立するとき

この論理は経営理念よりも会社の社長の能力のほうが経営結果を左右することと同じである。もちろん目標となる数字を作るのは良いことだがそれはビジネスの中身・実務をうちたててからやるべきことだ。ましてや個人経営のゲーム制作という市場(インディーゲーム市場)においてはハッキリ言って数字なんかどうでもいいのだ。作りたいものがあって☞それに基づいて積み上げていって技術を醸成させていく☞繰り返しの中でアイデアも生まれて☞制作・完成が上手くいく☞あわよくばセールスに繋がる可能性が残るということを忘れてしまってはいけない。ゲーム制作というのは夢なのである。夢=現実なわけではない。つまり夢が売上に繋がっている保証はない。そういう意味では根本的にゲーム制作と営利企業は両立しない。むしろ夢≠現実である。だが「こういったゲームを作りたい!」という夢を達成してから売上はようやっとついて回るものだ。その時になって方程式は始めて矛盾を超えて成立する。その時になって初めて夢=現実という方程式は成り立つのだ。

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