私はかつて紙屋高雪のことをこっぴどくサムズダウンしたことがある。「紙屋の文章は退屈で工夫がなく適当に漫画を交えて評論家ぶっているだけである」と著書「“町内会”は義務ですか? ~コミュニティーと自由の実践~」を凄惨に批判したのだ。だがその後出版された紙屋の「不快な表現をやめさせたい!?」は素晴らしい出来だった。具体性に富んでいて新規性がありテクニカルな評論が出来ていたからだ。ただし今回取り上げる三宅香帆の文章は「退屈で工夫がない」なだけではなく「評論家の仕事として根本的に評価出来ない」と思う。紙屋の一部の著書を酷評した以上により凄惨な評価を私自身せざるを得ない。同じ評論家でも明らかに紙屋のほうがずっといい仕事をしている。なぜだろうか?
この理由は単純である。評論家というものは特に現代に至るに当たり小林秀雄のような印象評論であってはならないとする考え方がトレンドにあるからだ。評論というものは客観と主観を巡るビミョーな問題である。ゆえに当然これを客観的な論述に徹するべき学術論文にも当てはめられない。学術論文で評論をしたり特に印象評論をしたりするということは基本的にあってはならないのだ。あくまで定量的な評価をある事象に加える必要性があるのであって定性的なものはエッセイに分類される時代に入っているのにその時勢の流れに反してはいけない。社会学だって今どき定量的なものでなければアカデミックな評価はされない。文芸分野だってTMが使えたりするテクニカルで具現的な新しい視点がなければそれこそオリジナルなものとは言えない時代になっている。だからこそはっきり言っておくが三宅は単なるエッセイストである。評価も当然そこ止まりだ。
三宅の文章は本によって具体性に欠けたりその抽象度が入ったり来たりするので全体的な評価としてはっきり言って期待できないというのが私の中での評価だ。例えば「文芸オタクの私が教える バズる文章教室」は明らかに実用性に富んだ具現性のある本であるのにも関わらずその他の本は”推し”をテーマにしてみたり(著書「推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない 自分の言葉でつくるオタク文章術」のこと)と冒険心だけが独り歩きしている本を度々出版している。不透明な全体像を持つ作家という印象を抱かざるを得ない。例えば著書の一角「それを読むたび思い出す」は本質的に内容がエッセイ書であったりする。つまり三宅はエッセイストなのか文芸評論家なのかあるいは評論家なのかがよくわからない。どっちかというと単なるエッセイストである。
かつてフランシス・フクヤマは国際政治学者としてとても高名だった。特に「歴史の終わり」(歴史がポストモダン的にアメリカの勝利で終わるということを評した有名な書)を著したころが彼の最盛期だっただろう。だが彼はその後ネオコンに擦り寄ったり逆の論張りをしたりとそのキャリア的評価を明らかに下げたという経緯があると私は聞いている。三宅の評価もコレに似ている。それどころかフクヤマ級の最盛期と呼ぶ価値のあるようなインパクトのある国際的に評価できる著書は一冊も持っていない。私は修士課程の頃指導教員からこのような客観的評価を巡る厳しい指摘を教授陣からこっぴどくされたことがあるし恐らく京都大学でマスター号を取っている三宅だってそれはそうなはずなのだ。
同じ京大卒の紙屋の本にはそうしたアカデミックな高いキャリアの能力が活かされているのに対して三宅の本には微塵もそれ(アカデミックなキャリアを感じさせるだけの業績)を感じさせるところがない。同じ京大の学卒出身であるのに紙屋の評論能力とは雲泥の差がある。さらに紙屋は共産党の構成員としての分析能力が活用された有能な本が多いのに対して三宅のバックグラウンドにはそうした分析能力を感じさせるものもからっきしない。紙屋の本を読んで「漫画の読み方がわかった!」という具体的な獲得利を感じる読者は多いと聞く。だがそういう結実した実を読後感に感じるところも三宅の本にはない。結論から言うと読んでいてつまらん本が多い。それ故に買う価値はない。奇をてらっただけの生産性のない著書ばかり並べている作家・特に単なるエッセイストというのが私の中での評価である。