How to Develop the Skills to Navigate Life
ブキマクの語りに見えた知性
ゲヲログも、YouTuber:不器用人生マックスハート(通称:ブキマク)の動画を見て、はっとさせられた。ブキマクには、明らかに才能がある。話せる。自己主張できる。そして、自分の経験や意見を、相手に伝わる言葉へと組み立てられる。この語りには、学歴だけでは測れない知性があるんだよな。これは、【学歴という物差しだけでは語りきれない一人の女性の物語】なのである。
自分の人生を見つめ直す力
その語りを支えているのは、自分の人生における「自浄作用」…というと、ちょっと大げさかもしれない。だが、ブキマクには自分の行動や感情を見つめ直す力があるように、ゲヲログには見えるのだ。あのとき、自分は何を考えていたのか。なぜ、あんな行動を取ったのか。今なら、あの出来事をどう捉えるのか。経験を振り返り、整理して、他人にも伝わる形にする。自分の人生に、自分で問いを投げかける。ブキマクの語りには、そういう力が感じられるんだ。
大学名だけで人間は分からん
ブキマク本人は「Fラン卒」を自称している。ならば、学歴だけを比べて、自分のほうが上だと言う人もいるだろう。だが、それでブキマクの持っている能力まで測れたことになるのか? 同じように経験を整理し、言葉にして、人に届けられるのか? 出身大学の名前や、額縁に収まった卒業証書だけで、その人が何を考え、何をできるのかまで分かったつもりになる。それって、あまりにも大ざっぱじゃないかと、ゲヲログは思ったんだよね。
東浩紀の知性論と重なったところ
そんなことを考えていたところへ、東浩紀の知性についての話が重なった。東は、頭のよさを大学受験の成績と同一視せず、考え方の柔軟さや、よりよく考えようとする姿勢を重視している。ゲヲログがブキマクの語りに感じたものも、この考え方と重なる。自分の経験を一歩引いて眺め、言葉にしてみる。その営みの中にも、人間の知性は表れるのではないか。知性を見いだす場所は、もっと広くていいはずなんだよな。
絵もスポーツも頭を使っている
絵を描くなら、対象を観察し、何をどう表現するかを考える。スポーツなら、状況を読み、自分の身体をどう動かすかを判断する。そのために練習や訓練や、なんやかんや。うまくいかなかったところを見直して、次のやり方を工夫する。そこには、観察も判断も創意工夫もある。机の上で問題を解くとき以外にも、人間は頭を使っているのだ。こうした営みを、総合的な知性として捉えることに、何の不自然さがあるんだろうか。
その単一的な物差しだけで人を測るのは適正か
さらに、物事を続ける粘り強さや、他者と関わる力もある。いわゆる非認知的な能力も含めて、ゲヲログは人間の力をもっと広く見たい。もちろん、得手不得手も、能力の違いもある。だからこそ、人間を「頭がいい人」と「頭が悪い人」の二種類に分けて話を終わらせるのは、無理があるだろう。ある程度勉強してきたなら、自分の得意な物差しが届かないところにも気づきたい。そこを見落としたまま「自分は頭がいい」と思い込んでいるなら、それこそ、ずいぶんと視野の狭い話じゃないか。
勉強はマジで重要だがその使い方はより重要だ
もちろん、勉強することはマジで重要だ。ブキマク自身の、後悔を交えた語りからも、その大切さは伝わってくる。知識を身につけ、物事を理解する力を鍛える。そのうえで、学んだことを、目の前の困りごとや、自分が実現したいことにどう結びつけるのか。そこまで考えたいものだ。必要な情報を探し、人の意見を聞き、自分にできることを試してみる。知識を手に入れてから、それを次の行動に変えるまで。その間にも、工夫できることはたくさんある。
ゲヲログが考える総合的具現力
自分の経験を言葉にする。それを動画にして、人に届ける。考えていたことを、実際の表現や行動へと変えていく。観察する力、考える力、伝える力、動く力。ゲヲログは、これらを組み合わせて現実に働きかける力を、ひとまず「総合的具現力」と呼んでみたい。スマホやネットを使って、個人が発信できる今、自分の持っている力をどう表に出すのか。それを人とのつながりや、新しい機会へどう結びつけるのか。そこにある開拓力にも、目を向けたいと思うのだ。
まとまった語りから見えてくる人間という絵図
短い切り抜きだけでなく、まとまった語りを聞いていると、その人がどこで迷い、何を大切にし、どう考えてきたのかが見えてくることがある。ゲヲログは、ブキマクにそうした人生の魅力を感じる。以前、遠藤の語りにも、同じような力を感じたことがあった。自分の人生を、自分の言葉で語り、人に届けられる。そこで見えてくる人となりや考え方は、肩書きを眺めているだけでは分からない。だから、話を聞いてみる意味があるんだよな。
学歴だけでは幸福も安全も保障されない
ここまで能力の話をしてきたが、もう一つ忘れちゃいけないことがある。学歴や才能があっても、それだけで人生の幸福や安全が保障されるわけではない、ということだ。東大を卒業し、電通に入社した高橋まつりさんは、2015年に亡くなり、翌年、その死は労災と認定された。遺族への取材では、社内で助けを求めていたことも伝えられている。この出来事を、ご本人の問題解決能力や「生きる力」の不足に結びつけることはできない。むしろ本質的に問われるべきは、過重な労働環境と、人を守れなかった組織のあり方だ。
辞める力と辞められる環境
この件については、関連して池田信夫も、会社を辞めることが人生の終わりのように受け止められる日本社会のあり方を論じている。 ゲヲログがここで考えたいのは、「辞めればよかった」と言えることと、実際に辞められることの距離だ。無論、本人の観察力や問題解決力があれば必ず防げた、とまでは言えない。だが、本人が助けを求めていたのなら、その声を受け止め、負荷を減らし、別の道を支える側にも、それこそ問題解決力が必要だったはずだ。「総合的に見る」と言うなら、そこまで見たい。個人の工夫だけですべてを引き受けさせたら、それこそ問題の捉え方が狭くなってしまう。
逃げるところは逃げていい
転じて、人生で何かにぶち当たったとき、何もかも自分のせいにしなくていい。逃げるべきところでは逃げる。踏ん張るべきところでは、腰を据えて取り組む。自分のやり方を厳しく見直すことはあっても、自分自身の価値まで否定する必要はない。そして、自分にも他人にも、最後の最後は優しい気持ちを忘れたくないんだよな。挫折しながら進む。何かに挑戦して、できるところまで形にする。一度で全部うまくやれなくても、その都度、考え直せばいい。そうした試行錯誤にも、人間の知性は表れるとゲヲログは思う。
人生のプランは見直していい
年収や働き方に納得できないなら、人生のプランを見直し、転職を考えるのも一つだ。労働環境が悪いなら、そこから離れる道を探していい。もっとも、生活の事情があって、すぐには辞められない人だっている。相談し、準備し、人や制度の力も借りながら、自分が取れる選択肢を増やしていく。続けることも、辞めることも、やり方を変えることも、問題を解決するための選択肢になり得る。自分を守り、状況を少しでもよくする方向に進めるなら、それでいいのだ。
学位は自分の経験についてくる
学位だって、そうした経験の先に目指す道があっていい。自分がぶち当たった問題を振り返り、何を知る必要があるのかを考え、学びや研究によって掘り下げていく。経験を研究へ結びつけるには、それ相応の勉強も検証も要る。ゲヲログは、その過程に意味があると思う。その成果として学位を目指すなら、経験と学問がつながる。学歴だけでは測れない力を、自分の人生の中で育てながら、その経験を学問にもつなげていく。ゲヲログにとって、「学位は自分の経験についてくる」とは、そういうことなんだよね。
