Netflixに見るボーダーフリーな文化圏
Netflixを見ていて気付いたんだけど実写・漫画・アニメ・ラノベ・ゲームの違いってのはやはり境界が曖昧になりすぎているように思う。こういうとコンテンツのダメな点を指摘しているのか?と思うかもしれない。だがこれは決してネガティブにこういった産業動向をとらえているわけではない(もちろんそうとらえても良いんだけど…)。むしろこういったミックスコンテンツの事象はポジティブにとらえるべきことのように私は思う。単にひとつの産業がヒットするだけでは市場への効用は限られちゃう。多様な方向性で消費が進めば影響力も経済力も強まる。単純なことだ。そしてこれは単方向のコンテンツになっているだけではなく自由自在な方向性を持つものとしてとらえるべきだとも思うんだ。なぜだろうか?まずは事例を挙げながら言ってみよう。
その事例の紹介
例えば最近話題になっているのはNetflixの「グラスハート」。これはライトノベル☞実写の事例だよな。また「ウィッチャー」もそうだろう。これは小説☞ゲーム☞Netflixで実写の事例だよな。「ストレンジャー・シングス」だってそうだ。これはNetflix実写☞ゲームの事例だよな。「進撃の巨人」だって漫画☞アニメ☞ゲームの事例だよな。「鬼滅の刃」だってそうだ。漫画☞アニメ☞ゲームの事例だよな。これはありていな形で論じれるものじゃない。作品の持つ作風やテーマに沿って実写・漫画・アニメ・ラノベ・ゲームというマジカルなコンテンツたちの中で一番適切な表現方法を取ろうということなのだ。ではなぜこういった派生が生じるようになったのか。
理由1:撮影技術の進歩
まず挙げられる理由のうちの一つが撮影技術の進歩だ。実写にCGやVFXを融合させることでいかにもアニメ的な表現を実写で取り込めるようになってきた。これがアニメ☞実写のような表現を可能にした理由のうちの一つだ。他方実写☞アニメの方向でもいいんだ。なぜかっていうとアニメでも実写みたいな表現手法がとれるようになったから。例えば3DCGの技術があれば実写でしか取れなかった撮影手法がアニメに適用できるからだ。このように撮影技術が各作品の描画手法を繋ぎとめてきた。だからこそいろんな表現が一つの朧げな要素にまとまって集約しているわけだな。
理由2:コンテンツ自体に対する消費活動
では単に映像技術だけが進歩したから各作品の境界が曖昧になってきたのか?そうとは言えないだろう。実写・漫画・アニメ・ラノベ・ゲームといった各コンテンツの派生に対して偏見が無くなってきているというのも間違いない。例えばNetflixではこうした映像表現や視覚表現に対する境界の引き方がかなり変わってきているのがよくよく見て取れる(前述した作品たちのように)。視聴者に対して主体的にうったえかけるようになっていて「これはアニメだから」だとか「これは実写だから」という理由で割り切る視聴者がいなくなってきている。見方自体がコンテンツの方を向いていて見ていておもろいものだったら偏見無くしてとらえきる人々が多くなってきている。
理由3:制作側の意図~市場開拓性と表現の増大性~
また最後に制作側の意図もあるだろう。これは意図的にコンテンツをバイラルに展開することで市場開拓性や表現の増大性に寄与するという試みのことだ。例えば「アーケイン」なんかは間違いなくそれが狙われている。「アーケイン」はゲーム「リーグ・オブ・レジェンド」のアニメーション版だがこれは意図的に狙われている。例えばアニメ「アーケイン」は赤字だと言われることも多いけどそれはコンテンツとしての売り方の問題なので大したproblemではないとする論も有力なんだ。そもそも「アーケイン」はアニメといっても実写の要素を多く含んでいて技術革新的なアニメである。この点でも方向がコンテンツ自体の方を向いていて興味深いと思う。
まとめ
この意において本質的には表現方法が進歩し多様化したから芸術表現のジャンルよりもコンテンツそのものが主役になってきているという方が正しいんだ。撮影技術が進歩したこと・偏見が無くなってきていてコンテンツ自体が主役になってきていること・制作側の意図という三つの理由を挙げたけどこの中で一番重要なのが間違いなく二つ目だ。魅力ある表現であれば実写だろうが漫画だろうがアニメだろうがラノベだろうがゲームだろうが好んでコンテンツの消費に消費者側から積極的に関わることが最近は明らかになってきている。「ぶっ飛んだ」実写化でなければ原IPが漫画・アニメ・ラノベ・ゲームの実写化は容易に受け入れられる時代になって来たんだよな。考えてみればアズマンの「データベース消費」論なんてその最たるものじゃないか。