「小林さんちのメイドラゴン」と「よつばと!」における「日常的奇跡」の共通性について


Today’s lecture is about the commonality of “everyday miracles” in “Miss Kobayashi’s Dragon Maid” and “Yotsuba&!”.


論旨

今日の講義は「小林さんちのメイドラゴン」と「よつばと!」における「日常的奇跡」の共通性についてです。

「小林さんちのメイドラゴン」における「日常的奇跡」

まず二つの作品のテーマを見てみましょう。「小林さんちのメイドラゴン」は「異質との日々の暮らし」という「日常的奇跡」を描いています。トールやカンナは明らかに我々の日常とは全く違ったものです。というかドラゴンが人間に変身して我々人間の世界に降りて来るなんて到底あり得ないことです。この「非日常の日常」を描いている点が「小林さんちのメイドラゴン」における「日常的奇跡」です。

「よつばと!」における「日常的奇跡」

対して「よつばと!」はよつばという子供・里子を描いています。そのルーツは作中では定かではありませんがこれはこの世の生を受けた子供が日常に発見を起こすことで「日常的奇跡」を描いています。これも当然奇跡のうちのひとつ・日常に新たなることを発見するプロセスに感動があるという奇跡ですが明らかに「日常の非日常」を発見するという類の奇跡です。これもまた「日常的奇跡」のうちのひとつなんですね。

ベクトルの反合性

両者は「日常的奇跡」を描いていますがその向いている内部に潜むベクトルはまったく正反対に向いているということに気付いていただけたでしょうか。また内部の本質的ベクトルは違っていても共通している…というかコアコアな点では似ている点もあります。それが両者ともに「世界が劇的に変わる」だとか「おおよそ天変地異な事が起きて作品の物語が躍動する」ということを全く描いていない点です。

否「大きな物語」

一見して「小林さんちのメイドラゴン」は「世界が劇的に変わる」「おおよそ天変地異な事が起きて作品の物語が躍動する」ことを描いているかのように思えます。ですがこれは本作の核心にはふれていないと思います。たしかにドラゴンが出現して世界に影響力を及ぼすのは明らかな日常への介入ですがこれが本作の核心なわけではありません。むしろドラゴンがやってきて日常に溶け込む様子を描いています。ですから「大きな物語」が構成されているわけではないのです。

否「大きな物語」2

これは「よつばと!」でも同じです。よつばが発見する普通という奇跡は「世界が劇的に変わる」「おおよそ天変地異な事が起きて作品の物語が躍動する」という類のカテゴリーに属するものではありません。こちらはその意において「小林さんちのメイドラゴン」における劇中の内容よりもより分かりやすい内容的核心です。当然ですがよつばの日常は「大きな物語」で構成されているわけではないです。

わかりにくい日常とわかりやすい日常

確かに日常度には差異がありますよね。「小林さんちのメイドラゴン」における日常度は若干わかりにくい日常度です。だってドラゴンが振ってくるんですから。むしろそれは表面上の設定でありそこが誤解を招きかねない日常度ですよね。ですがそれは日常で普通の日々です。ですから小林はSEでフツーのサラリーウーマンなのです。それよりかは「よつばと!」の日常度は分かりやすい。つまり日常度においては「よつばと!」>>>「小林さんちのメイドラゴン」という理解不等号が成立するのです。

人間という柔い存在

両者共に明らかに「大きな物語」で構成されていない。日常度では不等号があるものの同時に両者が描くのは多少性質の違っている同じような日常です。そこには生活があり友人がいて大切なものがある。それはあっても苦しいがあってこそ生きられる。つまり人間とは絆によって生き延びることのできるとても柔い生物なのですね。「小林さんちのメイドラゴン」にドラゴンという種族の違いがあり「よつばと!」は人間の違い…と言っていいかはわかりませんがある種変な気質の人間の違いがある。

ニュートン的物理法則では描けないエレメント

両者が共通している点は物理的な側面からも見て取れます。それが「物理的な衝動によって日常は変わらない」ということです。あくまで奇跡的日常は登場するキャラクターの内部の問題です。これが実は私たちの日常にまで連なる奇跡なのです。つまるところ日常とは見方の違いによってそこに奇跡を見出せることもできる。そこにはニュートン的物理法則を超えている感情の問題が生活に確かに根付いているということなのです。

コペルニクス的転回

ものごとの問題ではない。言葉やその言葉の背後に隠れている意味を見出すことに奇跡はあるという点で「小林さんちのメイドラゴン」と「よつばと!」には共通している凄味やエッセンスがあるのです。つまり物理的な意味合いではなくしてコペルニクス的な転回をどこに見出すかという視点変更の問題であるということを両者は見出しているのです。これは明白な認識的な現象であり人間やキャラの内部やその内部から外部を観察するプロセスの違いです。

奇跡の渇望という間違い

この意味において物静かに「小林さんちのメイドラゴン」と「よつばと!」は現代社会に根付いてる奇跡の渇望・奇跡の欠落性を問いかけているように思えます。我々は奇跡を望みます。そしてそれが人生にとってプラスであることを願う。宝くじに当たる・株価が上がることを願う…こういったことを我々は表面的に奇跡と言いがちです。ですがそれは明らかに間違っている。大金を当てるとか大きな巡り合わせに出会うことが奇跡ではないのです。これを「奇跡の欠落」と我々は明に捉えているのです。

比較表

比較項目「小林さんちのメイドラゴン」「よつばと!」
本質的な問い非日常の日常=奇跡日常の非日常=奇跡
物語のスタンス人的超越のドラゴンによる日常里子による生活的日常
「大きな物語」性そうは見えぬが「大きな物語」でない明らかに「大きな物語」でない
描かれる奇跡への理解性若干わかりにくい異種間の融合極めてわかりやすい人間の社会通俗性
日常への存在的スタンス人間の世に溶け込むドラゴン人間の世に溶け込む別の人間(里子)
共通して提起する部分認識的な現象の肯定
さらに共通して提起する部分「奇跡の欠落」への批判

現代を問う両漫画作品

ここに大きな間違いがある。奇跡とはありふれた発見のことであり日常に潜む別なアスペクト・ディスバリーなんですね。この意味においては奇跡とは実は汎用的なものであって決して非汎用性のあるものではない。トールもよつばもそこを提起している実存的存在です。実存&空想のキャラが実存していない抽象系の発見・転回・質的な物事の捉え方・視点変更を実践することの大切さをどちらの作品もその作風の中で問うているとは言えないでしょうか。