A Theory of Game Development Success: Transcendence Beyond Gamification’s Natural Properties and the Mimic Condition
ニヒテン氏の問いかけ:ゲーム制作もまたゲームである
JRPG制作の正当なる後継者・インディーゲームクリエイターにして、Xプラットフォーム上にて其の名を馳せるニヒテン氏。同氏が今、自身のゲーム:「COMPLEX HIRO」を作るにあたり感じたこと、それを「新種のSNS」であるSubstackに掲載している。結論から言うと、ゲームに対する期待値が高いあまりに論考自体も大変興味深いものになっている。ニヒテン氏が云うには、「ゲーム制作もまたゲーム」なのではないか?という。
ゲーミフィケーションとしての存在:人間の諸活動に影響を与えるシミュレーション
ニヒテン氏が云うのは、とどのつまり、ゲーム制作の開発体制にクリエイターが相対するに際し、その行為・行動自体から、既にゲームは始まっているのではないか?とする論のことラシイ。いやぁ面白い!これは、ゲヲログではゲーミフィケーションの解釈問題として長らく取り扱ってきた、私的にトレンドな議題である。つまり、ゲームとは、既に存在自体がゲーミフィケーション的に人間の諸活動に影響を与えうるシミュレーション的存在なのだ、とゲヲログは度々結論してきたことと並立する論なのだ。
リリース前のブラックボックス:AAAの苦戦と盲点からの台頭
ゲームとはその存在自体がまさに、自由なクリエイティングである。ただし、そのゲームが高い評価を得るか、あるいは低い評価を得るか、ということはリリース前には事前察知できない。意外なゲーム・盲点となっているゲームが人気を博すかもしれないのである。その逆もまたしかりで、これはAAAタイトルだ!とされたゲームが蓋開けてみたら賛否両論ということもままあることは、Steamerならば知っている事例だ、とゲヲログは思う。ここをゲヲログなりに解説してみる。
スポーツゲームの凋落と「Among Us」「StS」の覚醒
例えば、「FIFA」シリーズが賛否両論になって久しい。鉄板とされてきた「FM」シリーズも賛否両論だ。まさかと思いきや、「MADDEN」シリーズも今まさに、また賛否両論だ。このAAAスポーツゲームシリーズが凋落していく様を予見できたゲームファンはいるのだろうか?私は「FIFA」はまだしも、「FM」や「MADDEN」が賛否両論になるのは予想してなかった。また、人狼ゲーム「Among Us」や、ローグライクカードゲーム「StS」を、準Aタイトルとして評価をするものが、ゲーム発表当時から居たか?
乱数装置としてのゲーム:ホワイトノイズでは捉えきれない評価スパン
私はそういった先見の念がある人間はこの世に全くいないと思う。これが「ブレイクアウトタイトルの事前察知不可能性」なのだ。ゲームとは元来、玉手箱・宝箱であり、作り続ければ神ゲー認定されるとは限らない乱数装置なのだ。短期間に作り上げたからと言って神ゲーとされるとも限らないしその逆もありうる。質量の双方において、ゲームを巡る評価のスパンは非常に乱雑なのである。ゲームとは、ホワイトノイズでは想定できない複雑系なのだと私は感じている。だからこそ、ゲーム制作は面白い。
納期からの解放と「宝箱」を掘り当てるポテンシャル
これは時間軸の問題でもある。ニヒテン氏が云うように、オフィシャルなゲームPには当然納期がある。これは間違いない。だが、インディーの場合納期はあまりない。自由に作って良い。「作り続ければ神ゲーになるわけではない」「短期間制作だからといってダメなわけでもない」というカオスな環境…これは開発者にとっては残酷なリスクに見える。しかしながら、見方変えれば、「どんなインディーゲームクリエイターであっても、宝箱という存在を探し当てるポテンシャルがあるということなのだ。
メタ・ゲームに挑む信念:ミミックを超えた真なる傑作への到達
自由なクリエイティングと評価のランダム性が織りなすこのメタ・ゲームに挑むこと自体が、クリエイターにとって最大のエンターテインメント=ゲームであるという視点は、ゲヲログの提唱してきたゲーミフィケーション論に、同一の光を当てるものと言えるだろう。その点でニヒテン氏のSubstack的な発想とゲヲログのゲームに対する価値観は重層に構造している、そう言える。その宝箱がミミックではない、と信じる心そのものが、ゲームを真なるAAAタイトル=傑作に至らしめるのだろう。
