”クソ動画クリエイター”を自認する登録者数247万人 総再生回数10億5351万7985回のYouTuber・SNS運用者・漫画家のからめるの単行本を買ってみた。からめるの出自はWikipediaに詳しいのでそちらを参照してほしいが端的に言うと本書は画期的な漫画だ。否漫画の枠にとどまない日本が世界に誇る一流のコンテンツあるいは芸術だ。この才能を世界は待っていたんだ!間違いなくとんでもない芸術である。
この漫画の下敷きになっていると私が勝手に考えるのはやはり小林銅蟲による「ねぎ姉さん」である。少なくとも本書の理論的下敷きとして位置づけられると私は思う。Wikipediaは「ねぎ姉さん」のコンセプトのことをこう評している。「題名の不可読性」「展開を完全に無視した物語構成」「意味不明の発言内容など極端に不条理な作品」と(上述のリンクより引用させていただく)。このからめるにより漫画「からめる」もかなり近しいものを持っている。ジャンル的な総括は本文の最後に述べたいと思うがこの三要素のうち「からめる」はどこを継承しているのだろうか?
例えば「題名の不可読性」は明らかに「ねぎ姉さん」のそれを継承している。それは読めばわかる。加えて「題名の不可読性」よりかは共通項が減るものの「展開を完全に無視した物語構成」「意味不明の発言内容など極端に不条理な作品」の二項でさえ半分以上は継承していると私は判断した。どちらかというと”意味不明”とまではいかないものの”不条理な作風”という点では「ねぎ姉さん」の後継者といっても差し支えないと思う。”意味不明さ”では「ねぎ姉さん」には及ばないが”不条理さ”ではアレにとって及ばない絶対的な領域を占めている。
思うにポストモダンにおいてはエントロピーの問題が主題となるうえでこうした漫画は間違いなく今後プレゼンスを高めていくことだろうことは容易に想定できた。ゲヲログ2.0でも大概この路線のことを私は賞賛してきたしこれからも賞賛するだろう。モダンの後の時勢ではエントロピーが時間軸の進行とともに当然増大していく(「エントロピー増大の法則」)。芸術表現は当然自由闊達さの問題でもあるし行動の自由不自由の度合いの問題でもあるからエントロピーの問題とは極めて近しいものがあるのだ。
この漫画ははっきり言って解説する必要はこれ以上ない。というよりかはそもそも存在しているだけでこの根源的な課題を漫画自体が芸術的にクリアーしているので元来解説を深掘りする必要がないと表現するのが本質的に正しい。先の見えない展開の領域が増していくのは生前の天才漫画家ねこぢるによる「ねこぢるうどん」の時代から明らかであった。それが「ねぎ姉さん」に継承され本書「からめる」にさらにメタ的に継承されただけなのだ。
山野一の「そせじ」がその反動たる表現において合一性がありとてつもない別色の魅力がある育児漫画なのは間違いない(ふつーに単行本にして売れよ!)。それはあたかも漫画の重力にとらわれた我々にその根源的原因がある。このように漫画の歴史を辿るうえでねこぢる・小林銅蟲・からめる・山野一はやはり一貫性のある新ジャンルの作家といえるだろう。あえて表現するのであればそうだな…それは”不条理さを備えた展開の見えない総じて魅力的な漫画の新ジャンル”という漫画の新たな共通項であるように私には見え映えるわけだ。