ごめんなさい「短い作品しか描いてない人気漫画家だっている」って話はその通りだと思うし僕個人も短い作品のほうが好きですけど「長い連載作品がある漫画家とそうでない漫画家では知名度や収入に結構な差がありがちだよね」程度の話まで否定したがる人は流石に漫画家がどうやって食ってると思ってるの
— だあでん (@yyskRL) July 26, 2024
所謂「短編の名手」とされる漫画家に長編を諦めさせるのは妥当か?
私もタイザン5の短編をいくつも見てきてその完成度の高さにびっくりした。通じているのは時系列の整理がしっかりと出来てている点・瞬発的なアイデアが光るという点・漫画の多様性を最大限尊重した丁寧なハナシ作りが出来ている点だろう。例えば傑篇「ファイティングガールズ」も傑作「タコピーの原罪」と同じように時系列の整理が出来ていてしかもよりシンプルに瞬発的な描画が光っているので近年稀に見るほど漫画界で高い完成度を誇っている。「キスしたい男」は時系列の整理というよりかはそれにあまりこだわることなくストーリーの完成度と心理描画の変遷に焦点を合わせている点で斬新だ。他どれも個性的で面白い。異論はほぼほぼないだろう。それぐらい凄い漫画が多い。
「長編の名手」とされる人々はどう漫画を描くか?
他方長編が得意な漫画家はキャラクターや世界観に焦点が当たることが多い。特段この二点で優れた漫画作家が「長編の名手」とされることが多いだろう。短編が得意な漫画家とはやはり相対する側面が多々観察できるのである。より具体的に言うと特に今Xで巻き起こっている漫画の論が『タイザン5は短編ばっか描いてくれりゃいい』というもの。はたから見てもこれはタイザン5にとって迷惑千万なこととは思う(もちろん先生ご本人がどう思っているかはわからないが…)。そこでゲヲログの本記事では『所謂「短編の名手」とされる漫画家に長編を諦めさせるのは妥当か?』という論を立ててこれを検証してみようと思う。
事例の観察から
…と理論的な側面から入ろうとは思ったものの”圧倒的に斜め上を行く”ゲヲログとしては意表を突いてついてまず特定の事例から入ってみようと思う。事例から入って論を展開してみよう。例えば「現代ホラー漫画の巨匠」であり「現存する世界一の漫画作家のうちの一人」とされる伊藤潤二でさえ初めは活躍の場は短編だった。その後短編から長編に活躍の場を移しその名声を世界的なものにした稀代の漫画家のひとりである。そしてこれは古きに始まり藤子不二雄Ⓐだってそうだった。現代漫画で代表的な作家である藤崎竜だって元々は短編や中編の名手として知られていたのだ。だが伊藤や藤子みたいに長編に活躍の場を移して傑作漫画「封神演義」を生み出した…という”作品制作のフロー(変遷)”があるわけだ。まぁこれが漫画家としての”実績の作り方”って言ってもいいだろう。
「短編だけ一生描いてろ」はおかしい
こういった事例を見る限り間違いなくタイザン5だって長編を書く能力はしっかりとあると私は思う。例えばどういったことが長編執筆のきっかけとなるかはわからん。ある種ひとつの他作品やありとあらゆる鑑賞行動が何らかの創作のきっかけとなるかも当然わからん。それが完成度の高い長編漫画に転変するかは誰にも予測がつかないのである。漫画はいくつものエレメントを集めた”寄せ集めの芸術”なのだから何がトリガーになって長編に帰属・収束していくかはやはりわからんのだ。考えてみれば当然で当たり前のことなんだがだからこそタイザン5に「短編だけ一生描いてろ」ってのは全く妥当じゃないと私は思う。確かに現存する氏の長編作品は今のところ期待には答えられていない。だが何が作品の制作に帰結し起承転結のある漫画に相成るかは本人にしかわからないのも当然の事である。思えばゴッホは生前だれもその芸術性に理解を示されなかった。これと理論的には同じことである。
”売れる”と”読まれる・愛される”の違い
しかも業界的な制約も忘れてはならないというそうした理由もある。雑誌や出版社は”売れる方針”を取る。資本主義の世の中に生きる芸術とはかくも非情なものなのである。作家のチャレンジ精神を絶やすのは当然芸術としては妥当ではない。だが資本主義の世の中では金が儲からないとダメなのも事実だ。むしろだからこそ「斬」のような漫画もあっていいと私は思うし「稲中卓球部」のような漫画もあっていいと思う。もちろんそのベクトルが”あっちの方向”を向くとねこじるや山野一のような漫画になるのかもしれない。これらはあくまで極端な事例だがそれには妥当性があって多様性を取ると「資本の収奪」がばらけるのは当然の事ではないか。科学研究だって漫画作成だってありていながら根本は同じだ。根っこにあるシードを探して徹底して諦めずチャレンジし続ける…これが重要なのだ。
異端がイノベーションを生み出してきた
そういう意において異端を認めないのはおかしい。異端とされる”変わった人”が新しいイノベーションを巻き起こしてきた歴史も否定できないだろう。それはそう!日本電産(ニデック)の創業者永守重信が言うようにである。この意見を踏襲すればわかるだろうが結論を言う。『タイザン5は短編ばっか描いてくれりゃいい』というのは明らかにオカシイ。ダイバーシティという芸術の在り方を認めない・あるいは研究的芸術活動を認めないオピニオンだけを抽出して考えていそうな人が思うことだから。それは「内心の自由」としては当然重々良い考え方だろう。だがそれがタイザン5先生の創作意欲を削ぐ流れになったらそれこそその意見の変遷はおかしなものになっていることを裏合わせしちゃっていることになる。
所謂「短編の名手」とされる漫画家に長編を諦めさせるのは妥当ではない
だからこそもう一度言っておく。『所謂「短編の名手」とされる漫画家に長編を諦めさせるのは妥当ではない』と。絶対にそうではない。一日本人・一漫画ファンの心の声として書き残しておこうというインスピレーションをゲヲログは特に忘れてはならないのだ。これは単にDEI(多様性・公平性・包括性の尊重姿勢)とかなんとかそういうことを言っているのではない。もっと人間の根源的なものだ。漫画はどうしたって巡り合わせの”奇跡の集合”である。可能性が低いからと言って反論それを強要していいものでもないのである。やはり”言うべきことは言わないと…”という思いと共にゲヲログではこの短文をしっかとここのログ(ゲヲログ)に書き残しておく。