「Gears 5」はなぜクソゲーだったのか?

確かに「Gears 5」は失敗だったのかもしれない。というのも「Gears of War」というIPはしょっぱなから完成度が高すぎたという前フリがまず必要だと私は思う。当然人気作品はその続編を期待するファンの声が大きくなる。前作の興奮をまた別な側面から味わいたい・刷新されたPvPの魅力をもっと強く伝えてほしい…こういった声が上がるのはゲームの人気IPを巡っては当然のことだろう。だが「Gears of War」はその声に耳を傾け続けてきてもう20年近く経とうとしているのだ。当時高校生だった私が「Gears of War」の魅力に憑りつかれてからそれだけの年月が経つわけだ。その中で期待感に常に100%の完成度でもってして完璧にデヴェロッピング・パブリッシングするというのはどんな天才の力でもってしても難しいはずだ。

シングルプレイはもちろんのことマルチプレイでも同じことが期待されそれに100点満点の答案で答えきれなかったXboxサイドの苦悩はよくわかる。例えば「Gears 5」はケイト・ディアスという女性を主人公に据えている。また一部オープンワールドの要素を多分に取り入れることで別色を出したいという思惑も感じられる。ちょっとでも工夫してシリーズの硬直化したシステム系にいろいろと工夫しているというのはよくよくわかることなのだ。完成度の高い先達を持つからこそこうした試みは重要であると私は思うしそれを意識したゲーム制作の試みだったろう。女性の主人公・システムの大胆な改変…試み自体は評価できる。また新たな試みを錯誤するからこそファンとの軋轢・すれ違いも生まれるのだ。その意味で「Gears 5」はクソゲーだとする意見もよくわかるし良ゲーだとする意見も同時によくわかるわけだ。

またマルチプレイを巡ってはマイクロトランザクションを部分的に導入したりシステムバランスの微妙な匙加減に批判が集まったりすることもあったはずだ。特に私も感じたところではマッチメイキングには難があったのだと思う。上手い人にはディスられ罵られる…なんだかんだ言って上級者以外お断りな側面もコミュニティ形成の都合上否定できない。「なぜシリーズが面白かったのかよく考えてください!」というような代表的な批判をするレビューもよくよく考えると納得のいくところなのだ。特に気になるのがカバーキャンセルの難易度の高さである。このゲームはカバキャンができないと上級者にはなれないという条件がある。カバー(遮蔽物に隠れる)アクションのキャンセルが連続して出せないと高速移動と高速機動ができないのだ。そしてその難易度は単純そうに見えて極めて高い。

またシークエルのような続編を作りやすいゲームだというのも「Gears 5」がたどり着いた先にあった条件のうちのひとつかもしれない。このゲームは世代を超えて登場キャラクターが躍動する必死なアクションシークエルだから続編が極めて作りやすかった。マーカスの世代からその子孫の世代までいろんな物語を紡ぎたいとする制作意欲は当然わかるしゲームの続編に対する期待の声が大きかったのにはこの要因があると思う。つまり語弊を承知で言えば「Gears of War」は「ジョジョの奇妙な冒険」のような冒険活劇であると同時に伝記譚でもあるわけだ。ゲーム内で長い期間の間彼らの闘いを描くという試みはシリーズの継続化に寄与するところが大きかったわけである。続編が作りやすかったというのも「Gears 5」というシークエル終盤の作品が陳腐化したひとつの要因だと思われる。

「Gears of War」は確かにすごかった。まるで映画を見ているかのようなゲーム体験・マルチプレイの盛り上がり…だがここ20年後の今日「Gears 5」はそのIP自体にかかる期待の声に答え続けてこれなかったのは事実だ。これは確かに残念無念なことだろう。だが新しい試みを評価する声にもやはりシリファンは耳を傾けるべきだ。事実IP最新作として期待されている「Gears of War: E-Day」もゲームシリーズ「Gears of War」のうち一番初めの前日譚を描くという。(前述したように)工夫してファンに飽きられないようなゲーム制作の試みをXboxサイドもCoalitionサイドも実行しているのは間違いない。だから言おう。私はまだこのゲームシリーズに多大なる期待をしている…と。

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