「CITY」をなめてはいけない

なぜ「CITY」は評判が悪いのか?

あらゐけいいちの「CITY」はハッキリ言って「日常」の旧連載よりもずっと評判が悪い。ギャグが唐突すぎて読者層に合わない,,,いわば”置いてけぼり”になってしまっている。登場人物の魅力が足りない,,,いわば”群像劇”的すぎて空気感で押し通している。この二つの理由がデカいと思う。確かに初感では「CITY」は「日常」の旧連載よりもハッキリ言うとつまらないだろう。だが私はこのあらゐによる漫画「CITY」をなめていけないという持論を持っている。いわば「CITY」は私の推しなわけだがこれはなぜだろうか?

一言で言うとカオスの漫画だからである

まず”置いてけぼり”になっているギャグ性のところから。この漫画はそもそもだがカオスをテーマにしていると考えたほうが理解が早い。これについて似ているニュアンスとして挙げられる漫画の一例が小林による「ねぎ姉さん」だろう。つまり「日常」と違ってカオス,,,混沌をテーマにしているがためギャグのセンスが当の「日常」からかけ離れ過ぎているのだ。例えばさらに似たような漫画に山野による「そせじ」からめるによる漫画が挙げられる。これらの一連の作風は手っ取り早く言うと”クソ漫画”という漫画の賞賛枠に入ってくる漫画群なのだ。どういうことか?

ギャグの切れが悪いのも同じ論拠である

確かに「CITY」は「日常」よりもギャグの切れが悪いように感じるだろう。だがカオスには必然性がそもそもなく一貫性もない。複雑性がテーマになっていて乱雑性もテーマになっているという点から見れば納得のいくところである。「CITY」は「日常」よりもそのカオス性を増しているバージョンだと考えられないだろうか?ギャグの切れが悪いと感じるのはその唐突性が強まっているからだ。またオチの弱さも同様乱雑さが強まっているからなのだ。これは妙に小林「ねぎ姉さん」の持つテーマに似ている。いわば不条理性を増大させた増幅不条理漫画であることがこの漫画の作風の肝なんである。

キャラクターへの愛着が湧きにくいのは主題が異なっているからである

またキャラクターへの愛着が湧きにくいというの評も「CITY」にはある。たしかに相生祐子や長野原みおの登場していた「日常」よりもキャラ愛がうすい結果はなっている。南雲美鳥・新倉・泉わこはキャラが分散化しすぎていてキャラ愛が湧きにくい。これは歴然たる事実だろう。だがその漫画タイトルに象徴されるように「CITY」は街をテーマにしている。いわば街の持つユニークな空気感をテーマにしているのだ。だからこそ”群像劇”が主題になっていて抽象性が増しているのだ。だからこそキャラクターの生活する日常をテーマにとった「日常」よりキャラ愛が湧きにくく理解しにくい高度な漫画になっているのだ。

「CITY」は「日常」とは似て非なる漫画作品である

先に事例を挙げたようにこういった漫画に先達があったわけではない。だが「日常」のテーマが日常的必然のギャグだったとすると「CITY」のテーマは街の持つ群像的非必然のギャグにまとまっているのだ。だからこそ言う。「CITY」は「日常」と同じ気持ちで読もうとすると失敗する…と。「CITY」は「日常」と違ってベクトルの向いている方向が全く違う漫画なのである。同じ作家だからといって「日常」の延長上に「CITY」という漫画が存在しているわけではないのだ。だからこそあらゐワールドを基盤的に据えて物語を読み解くと大失敗するのだ。

「CITY」をなめてはいけない

「CITY」はあくまで「CITY」という別な漫画であり「日常」と同じ面もちで読み解ける漫画ではない。ここ(「CITY」という別な漫画にあらわれる表象性)こそがあらゐけいいいちという漫画家が天才である論拠になっている。そんな漫画である。今後散乱性がどんどん時系列と共に増していくカオスな時代を迎えるのは間違いない。そこに着眼していち早く散乱系の漫画・カオス系の漫画「CITY」という一作を造り建ててしまった点があらゐの凄い点なのである。だからこそ言おう。「CITY」をなめてはいけない…と。

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